海老折神登場がメインのエピソード。ところが、ことはが魂を奪われて、冒頭の戦い以外一切戦闘に参加しなかったり、一時的に丈瑠達の迷いが描かれる等、一筋縄ではいかないものとなっています。
特に凄まじいのは、十臓が現れて外道への道へ誘おうとするくだり。
十臓の誘い自体に他意はなく、単に「丈瑠に戦うことの出来る状態になって欲しい」というだけなのですが、ことはを助ける為の手段を見出す事の出来ない丈瑠達は、十臓の唱える方法をそのまま実践してしまうかも...という所まで追い込まれていきます。このシーンには割と長い尺が割り当てられており、悲嘆にくれる人々のシーンを挟んだりして悲壮感を煽っています。その迫力たるや、「外道に落ちない」という、ある種の予定調和を分かっていても、それを一時忘却させるもの。「もしかして...」と思わせる程の状況描写に唸らされます。
一方、ことはの誕生日パーティの準備に勤しんだり、源太が海老折神の完成をその日にぶつけようと目論んでいる等、微笑ましいシーンもそれなりに盛り込まれ、陽性の雰囲気もバランス良く感じさせます。特に、ダイカイオーのフェイスチェンジの愉快さは、陰性の雰囲気の中では浮いてしまうので、こういったバランス感覚は殊に重要であると思います。
ここであれこれ論じるより、本編を見れば今回の完成度の高さは一目瞭然。
というわけで、本編の見所を抽出してみましたので、どうぞ。先頃、更新がままならないかも知れないというお知らせをしましたが、何とか頑張ってみました。今回は、いつもよりキャプ画も多めです(笑)。
冒頭は、ことはの誕生日を明日に控え、丈瑠達4人が本人に内緒で準備をしている様子。
丈瑠がバースデイケーキを買いに行く担当に。
「千明、このケーキに入れるメッセージ、店に言って分かるのか?」
と丈瑠。この辺り、丈瑠の世事への疎さがさり気なく描かれ、これがまた実に微笑ましいのです。
流ノ介は、殿に買出しを頼むことに抵抗を感じており、代わりに行こうとしますが、丈瑠はあくまでも自分で行くと言います。丈瑠の、ことはの誕生日を祝いたい気持ちは、当然の如く皆と同様なのです。ちょっとイイ話。
ことはの誕生日のお祝いには、源太も勿論参加します。源太は、祝い寿司を準備することになっており、張り切っていました。しかも、源太にはある「野望」があり、
「エビゾー、お前ももうすぐ動けるし、誕生日一緒にすっか」
と海老折神に話しかけています。つまり、なかなか完成しない海老折神を、早く完成させようとしていたのでした。この事が、後に重要な役割を果たすことになるとは。イベント性とストーリーの兼ね合いが実に秀逸です。
さて、場面は三途の川へ。夏になると三途の川が荒れるらしく、六門船はかなり激しく揺れています。血祭ドウコクも波と同様に荒れ模様。骨のシタリは、ナナシやアヤカシ達の力も増して、三途の川の水が増えやすくなると言います。そこにウタカサネが登場。
「じゃあ、俺がそれに拍車をかけてあげようか」
と自信たっぷり。沢山の球状のパーツからなる気色悪いデザインは、正にアヤカシ。一聴しただけでは、ややトーンの高い男性の声と錯覚してしまうほどの美声ですが、これは人気声優の斎賀みつきさんによるもの。最近では(ブログを運営していたので)「ガンダム00」のリヴァイヴ・リバイバル役が個人的に印象深いですが、それよりも更にトーンを落として演じられていたので、恥ずかしながら、クレジットを見るまで気付きませんでした。
「ウタカサネか。確かにお前のいやらしさなら、拍車はかかる」
と薄皮太夫。「ガンダム00」の話題ばかりで恐縮ですが、イノベイター同士の再共演ですね。
一方、ようやくドウコクの縛りが抜けた十臓は、自由になった自らの身体を確かめるように、
「三途の川に入っても、ままならないのはこの身体か」
と呟きます。
私はこのセリフの意味を理解しかねるのですが、三途の川に出入り出来るようになったとしても、どうにも身体に関しては思い通りにならない。字面通り受け取れば、そんな意味になります。もしかすると、十臓がこのような身になったのには、何か悲劇的な理由があるのかも知れません。今回のところは、このセリフを今後への伏線だと受け取っておくことにします。
十臓は、屋台を引く源太とすれ違います。
「あんた、只者じゃないな」
と源太。黙って裏正を握りしめる十臓。一触即発!?と思いきや、
「屋台を見る目つきで分かる。相当のグルメだ」
と源太。このセリフ、私は源太が天才たる者の勘で、十臓の正体に感づき、源太流のカマかけをしたのかと思いましたが、
「面白い。寿司屋、次に会った時は食わせろ」
と言って去る十臓を見送り、
「あの雰囲気...もしかしてミシュラン?」
と言ってしまったところで、見事に裏切られました(笑)。源太、自分の寿司に相当の自信があるようです。
そこに丈瑠からアヤカシの連絡が。
ウタカサネは、「魂離脱」で多くの街の人々の魂を奪い取っていました。
多くの人々が魂を盗られて道に倒れ伏しているという、凄絶な絵図がインパクト大です。シンケンジャーの到着前にこれだけの被害を出していることからも、ウタカサネの「仕事の早さ」が分かり、同時にこの時点でシンケンジャーが既に後れを取っていて、後の展開の前兆をも感じさせることになっているのです。
シンケンジャーが到着して迎撃するも、ウタカサネは「百体分離」によって攻撃を無効化してしまいます。
ここでも完全に劣勢のシンケンジャー。そうこうしている内に隙を突かれ、何とことはが魂を奪われてしまいます。
変身が解け、ことははその場に昏倒してしまいます。
「魂を食われた人間は一日で死ぬ。助けるには俺を倒し、魂を解放するしかない。が、俺はこれから三途の川へ帰り、出て来ない。生きた人間の、手の届かない世界だ。打つ手もなく、丸一日の間、死ぬほど嘆き悲しんでもらおう」
実に卑怯な計画を目論み、大きな余裕と自信を窺わせるウタカサネに、怒りを燃やす丈瑠達。しかし、「百体分離」を駆使した変幻自在の攻撃の前に危機を迎えます。
源太は海老ディスクをサカナマルにセットし、百体分離したウタカサネの一部に一太刀浴びせることは出来たのですが...。
一応、思わせ振りなカットで構成されていますが、結構集中して見ていないと見過ごしてしまう、重要な意味のあるシーンです。
ウタカサネは、まんまと壁の亀裂の隙間から三途の川へと帰ってしまいます。為す術無く、絶望に打ちひしがれる一同...。彦馬の報告によれば、ことはを含めて54人の人々が魂を奪われているといい、その被害は甚大。三途の川の増水は約束されたようなものです。
その頃、源太は何度も「活」の電子モヂカラを、海老折神に与え続けていました。
一体、源太は海老折神で何をしようというのか?引きとして絶妙です。
志葉家の屋敷では、ことはが目を開け、
「皆、ごめんな。うち、戦われへんくて」
と気丈に振る舞います。「魂を抜かれる=身体が抜け殻になる」というわけではなく、命が極端に短くなるという効果を持つようです。ただし、他の病床にある人々は目覚めていないので、これは、ことはの類稀なる侍としての精神力の為せる業だということが出来るでしょう。
「ほんま、うちだけで良かったわ」
と笑うことはを、丈瑠は思わず抱き上げ、
「しっかりしろ!絶対助ける!だからそれまで...」
と言い聞かせます。この丈瑠の取り乱しようは、当初の丈瑠からは考えにくいもの。当初は「嘘」であるにしろ、ことはに「不要」という言葉を投げかけたのですから、ここでの絆の深まりには感動せざるを得ません。
「大丈夫。うち、大丈夫やし...」
なおも気丈に振る舞うことはの殊勝さも、感動を誘います。
千明は、そんなことはを見て思わず飛び出して行きます。流ノ介と茉子が後を追い、丈瑠は彦馬にことはを託して、さらにそれを追います。
千明は怒りのまま、ウタカサネが消えた壁の亀裂に向かって、シンケンマルを振るい続けます。流ノ介と茉子が止めに入るのですが、当の2人も逸る気持ちを抑えられないという微妙な表現が見事です。
丈瑠もやって来ますが、そこに十臓が現れます。
「俺は勝負運がないのかな。やっと戦えるかと思うと、お前は妙に取り込み中と来ている」
「分かってるなら、どけ!お前の相手をしてる暇はない」
「生きた人間が、三途の川に行く方法ならある」
驚く一同。
「三途の川に入る。つまり、生きて外道に身を落とす。およそ人の道から、外れたことをして...」
十臓の言は衝撃を伴って丈瑠達の胸に響きます。流れ的に、丈瑠達はいずれも怒りを燃やしており、怒りのまま人の道から外れることも、ともすれば自然に見えてしまう所が凄い。
なお、何故か十臓が喋っている間のイメージシーンには薄皮太夫が登場しており、十臓との浅からぬ因縁を感じさせます。興味は尽きませんね。
「どれほどの事をするか、それを考えろ」
と丈瑠に告げる十臓。丈瑠は、
「お前、まさかそうやって外道衆に」
と問いかけますが、
「同じ外道なら、人の命を超えて戦う。それもまた、一興だな。楽しみにしてるぞ」
と言って、十臓は去って行きます。このセリフによって、十臓には単に丈瑠との戦いにしか興味がないことを窺わせ、丈瑠を外道の道に引きずり込んだところで、自らの戦いが有利に運ぶわけでもないことが分かるわけです。
生きて外道に。
その方法が残念ながら丈瑠達に与えられた最善の策。若き侍達は大いに苦悩します。ここのセリフの応酬が実に素晴らしいので、ほぼ採録してしまいました。
千明「やってやる...三途の川に入れるなら」
丈瑠「待て!俺達にはこの世を守るという...」
千明「建前はいいんだよ!俺が今助けたいのは、ことはだ。どんなことをしても...」
茉子「私も、ことはの為なら...」
丈瑠「お前達は侍だ。個人の感情で使命を忘れるべきじゃない」
千明「お前ならいいのかよ!また一人で背負い込むつもりか?」
茉子「丈瑠」
流ノ介「殿!確かに私達は、感情に流されて侍を見失っています。でも、だからこそ、今、大切な人の傍にいる人達の気持ちが、痛いほど良く分かる!」
茉子「どんなに苦しいか...こんな思い、させくないって思う。これ以上誰にも!」
千明「多分、俺等が戦える理由はそれなんだ」
流ノ介「そして、我々が外道に落ちるとしたら...その為にこそ!」
丈瑠「その為にこそ...」
茉子「丈瑠...一人じゃ行かせない!」
丈瑠だけに背負わせない。外道に落ちようと一蓮托生。そんな絆の深さを感じさせる名シーンです。そこまでの覚悟が彼等にはあるということです。そこから先は描かれませんが、もしかすると、外道に落ちた自分達を、ことはに討たせることまで覚悟していたかも知れません。
と、そこに源太が登場。
悲壮なBGMが突如フェイドアウトし、漂っていた恐ろしくペシミスティックな雰囲気が一気に覆されます。
「あのアヤカシ、引っ張り出せるかも知れねぇぞ」
と言う源太。その為には凄いモヂカラが必要だといいます。この救世主っぷりも凄いですが、源太の登場によるストーリーの「転」が鮮烈です。
その頃、六門船でじっと待つウタカサネの体の一部に、「海老」の文字が浮かび上がっていました。
「活」のモヂカラを、海老折神に与える源太達。それに呼応するかのように、ウタカサネの「海老」の文字が浮かび上がっていたのです。
「活」のモヂカラを得た海老折神は、どんどん巨大化。源太達は、懸命にモヂカラを与え続けます。
このシーン自体、モヂカラという、現実にないものを与えるというシチュエーションであり、そこにリアリティを吹き込むには、画面作りは勿論、キャスト陣の表情や振る舞いが重要。完成した画面からは各人の懸命さが感じられ、懸命さが感じられるということは、リアリティを有しているということになります。実に熱いシーンとして完成しています。
結果、ウタカサネは、海老折神の起動と共に人間界に引っ張り出されます。海老折神の巨大なハサミに弾き飛ばされるウタカサネ。
初戦の折、源太はサカナマルに海老ディスクをセットして、ウタカサネの分離体に一太刀浴びせていましたが、実は、ウタカサネの身体に、海老折神を作ったのと同じ「海老」の文字を打ち込んでおいたのでした。
海老折神を完成させれば、ウタカサネに打ち込んだ「海老」の文字が反応して海老折神とリンクし、ウタカサネが引っ張り出されてくるという理屈。
この理屈、都合がいい感じもしますが、海老折神が海老のモヂカラなる「性質」の集合体(ゲシュタルト)だとすると、海老折神が起動した時、「性質」が集合体への帰属性を持っていてもおかしくはないわけで、なかなか的を射た理屈だと私は思います。
さて、シンケンジャーは変身してウタカサネに立ち向かいます。シンケンジャーは、ウタカサネを人間界に引っ張り出すことが出来たことで、怒りに任せた戦闘ではなく、それを乗り越えた冷静さを感じさせ、逆に意図しない状況に追い込まれて焦るウタカサネは、どんどん不利になっていく様が秀逸です。
源太によると、余計なもの(「海老」の文字)を入れた所為で、ウタカサネは百体分離出来なくなってしまったらしく、ウタカサネの焦りに更なる拍車がかかります。
空へ逃走するウタカサネを、ウォーターアローとヘブンファンで叩き落とし、ウッドスピアが炸裂。更に烈火大斬刀の一撃で、ウタカサネは撃破されます。
当然、二の目で巨大化を果たすウタカサネ。ことはが居ない為、シンケンオーは使えません。折神による個別攻撃を危惧する茉子ですが、源太は満を持して海老折神を使います。
海老折神の迫力ある進撃は、ミニチュアとCGを併用して重厚感とアクション性を両立させています。「海老バサミ」がウタカサネに炸裂!
続いて、ウタカサネが召喚した大ナナシ連中を、「太巻き光輪」で一掃!
更に、「侍変形」を開始する源太。
ダイカイオーの完成です。
「ダイカイオー、天下一品!」
の名乗りも爽快に、
「東(トウ)、東(トウ)、東ぃ!」
の音声が鳴り響きます。
「ダイカイオーヒガシ、ヘイお待ち!」
という源太の決め台詞が披露されると、突如、オープン撮影によるリアルな巨大戦が、迫力たっぷりに展開されます。
やはりオープン撮影だと巨大感、現実感が増しますね。
そして、矢継ぎ早にフェイスチェンジギミックを披露。
「ダイカイオーニシ、ヘイお待ち!」
「よっしゃぁ!西ぃ!」
軍配で攻撃を弾き返すダイカイオーニシ。ダイテンクウも助太刀します。
「ダイカイオーミナミ、ヘイお待ち!」
「南(ナン)とぉ!南ぃ!」
フェイスチェンジは海老ディスクの回転とシンクロさせる形になっており、とても愉快なギミックになっています。
「コロコロ変わるな!」
「悪いが、こういう使用なんでな」
「調子に乗るな!」
「ノリまくりだぜ!」
これらウタカサネと源太の掛け合いも可笑しい。今回の巨大戦は怒涛の迫力を持ちつつ、コミカルな味もあって充実しています。
これもオープン撮影。徐々に夕焼けへと変わっていく処理が、これまた美しい。ここでは、「海老刀大名おろし」が炸裂。
最後にダイカイオーヒガシに再度戻り、「海老ばさみ本手返し」でウタカサネを粉砕します。
フェイスチェンジだけでなく、武器が変わるというのはいいアイデアですね。
ウタカサネが倒れたことで、人々は無事元に戻りました。
ことはの誕生日パーティも無事催され、サプライズパーティは大成功。
ケーキのお礼を言われ、思わず照れる丈瑠が可愛らしい魅力を放ちます。源太の祝い寿司も豪勢で、思わず寿司が食べたくなりましたよ(笑)。
ここで終わるかと思いきや、CM後、エンディング直前に驚愕のシーンが挿入されます。
何と、「仮面ライダーディケイド」の海東大樹がいきなり現れ、烏賊折神を盗んでしまうのです。
海東「この世界のお宝、折神は僕が頂いた」
源太「何だと!?てめぇ何者だ!」
海東「ま、通りすがりの仮面ライダーってとこかな」
源太「はぁ?仮面ライダー?なんじゃそりゃ!」
海東「じゃあね」
源太「待て!烏賊ちゃん返せライダー野郎!」
先頃ニュースでも取り上げられた、史上初、戦隊&ライダーのコラボレーション。
来週は「シンケンジャー」の放送が休止になりますが、代わりに「ディケイド」にシンケンジャーが登場します。これは事件です!
詳しくは、私が並行して運営しているディケイドのブログをご覧下さい(笑)。
雪瑞
こんにちは、初めまして。私は雪瑞というものです。
ガンダム00のほうから感想を見させて頂いていますが、毎週とても楽しみです。
解説も詳しく、また大量のキャプでいつもとても分かりやすいです!
面白いシーンがきっちりキャプしてあるところもさすがだと思います(笑
これからも感想頑張ってください!
戦隊ヒロインBLOG
戦後日本の特撮ヒーローの原点といえるのが月光仮面で、これは原作者の川内康範が仏教の月光菩薩をイメージしてつけた名です。菩薩の慈悲の心を持ったヒーローといえます。川内氏はアメリカ産のものとは違う日本的なヒーローとして月光仮面のキャラクターを造形したそうで、つまり仏教の慈悲によって戦うヒーローというものが元来の日本的ヒーローの姿だという解釈があったのかもしれません。
仏教でいう慈悲というのは、弱者の苦しみに共感してその苦しみを癒して救済しようという心の動きのことをいいます。「弱きを助け強きを挫く」という日本の伝統的ヒーロー像は確かに仏教の慈悲の心に通じるようです。
ここで重視されているのは善悪の見極めや強さや正義の使命、弱者への憐みなどではなく、他者の苦しみに共感することです。それは善悪すら超越していますし、強さも必須ではありません。何故なら、仏教の慈悲においては、まず自分が弱く不完全な存在であり、弱者と同じように苦しむ悲しい存在であると自覚することから自分が他者と同体であるという共感が生まれ、そうした自覚があって初めて他者の苦しみを癒して救済せずにはいられないという想いが生まれてくるとされるからです。そして、自分と他者が苦しみを通して同体であるのならば、他者を救済することによって自分も救済されるのです。これがだいたい川内康範が作った戦後日本のヒーロー像の原点といえるでしょう。
さて、長々とこんなことを書き連ねたのは、このシンケンジャー第二十幕の7:43あたりのシンケンジャー4人のセリフの応酬が見事にこの慈悲の心の核心を突いていることに驚いたからです。脚本の小林靖子さんは相当、戦後日本のヒーロー文化についての造詣が深いようですね。
また、この4人のセリフの応酬を引き出したのは十蔵ですが、十蔵のセリフから類推するに、十蔵が外道に落ちた原因としては、もちろん強い者と戦うためという目的もあったのでしょうが、どうやらこの慈悲の心も関係しているとも思えます。それに薄皮太夫が関係しているのかもしれません。とにかくこの慈悲というのは弱者の苦しみであれば善悪の区別なく共感するものですから、慈悲の心ゆえに悪の道に入るということも十分にあり得るからです。小林女史ならばそのあたりは十分に理解されているはずですから、今後の展開に大いに期待したいですね。