ウルトラマンを窮地に追い込んだ溝呂木は、恵を人質にナイトレイダーを翻弄する。溝呂木は姫矢=ウルトラマンの光を手に入れ、より完璧な絶対者たろうとしていた。闇の特殊振動波は地上にも影響していた。イラストレーター・吉良沢は、「光はその輝きを完全には失っていない」と語る。
懸命に戦況を打開しようとするナイトレイダー。クトゥーラは凪機を地面に叩きつけようとしたが、溝呂木は一瞬躊躇する。その隙を突いてクトゥーラの呪縛から脱したチェスター各機は、フォーメーションを組み、ウルティメイト・バニッシャーでクトゥーラを粉砕した。地上で溝呂木と対峙するナイトレイダーだったが、圧倒的な溝呂木=メフィストの戦力の前にはほぼ無力であった。
一方、姫矢は意識下でセラに対し自らの過ちの深さを語る。生を写し撮るという目的がいつしか死を写し撮っていた自分の罪を、ウルトラマンの力という形の罰によってあがなうことができると考えた姫矢は、人を守ることによって孤独のうちに傷つき、やがて訪れる自分の死によって贖罪が完成すると信じていた。しかし、セラはウルトラマンの力が遥か古より選ばれた者に継承されてきたものだと言う。姫矢はその資格を疑うが、「生きていた証を写真に収めてくれたこと」を感謝するセラの言葉の前に、姫矢は光を取り戻す。
メフィストを前に奮戦するナイトレイダーの危機に呼応するかのように、遂に甦るウルトラマン。「力は他者を支配し圧する為にある。それに気付けぬ貴様が、俺に勝てるはずがない」とするメフィスト。エネルギーが充分でないウルトラマンはそれに抗うことが出来ない。最後のウルティメイト・バニッシャーを、ウルトラマンに向けて撃つよう指示する吉良沢。ウルトラマンにエネルギーを与えようというのだ。孤門にその一撃が任された!
エネルギーを得て真に甦ったウルトラマンは「この力は決して希望を捨てない人たちの為にある。それに気付けぬお前が、勝てるはずがない!」とメフィストに言い放つ。激闘の末、メフィストを消し去ったウルトラマンは、自身も消え去っていった。孤門に、「光は、絆だ。誰かへ受け継がれ、再び輝く」と言い残して…。
解説
姫矢編、遂にクライマックス! 悲壮感に溢れてはいるが、全編興奮の嵐。ウルトラマンとメフィストの消滅が意図的にぼかされているため、いわゆる決着感は若干薄いものの、殆ど最終回のノリである。
姫矢が何のために戦ってきたのかが土壇場で告白されるが、それはかなり絶望的な力の解釈だった。戦場のシーンを写真に収めてきた行為は、セラの死によって彼の中で全て罪に堕されてしまった。そして、得たウルトラマンの光はその罪に対して与えられた罰として彼に重くのしかかることとなった。姫矢の戦いは彼にとって罰だったのだ。
しかし、死を写し撮るだけでなく生をも写し撮る、つまり真実を写し撮ることが姫矢の目標であり、それは彼が気付かないうちに達成されていた。そのことは、今度はセラ(幻だが)の告白によって知らしめられる。セラは、その死によって姫矢に絶望を与えたが、姫矢が真に絶望したとき、希望の光となって姫矢を救った。これが何を意味するか考えたとき、セラは姫矢を「試す」ために存在したのかも知れないという結論に至った。これはかなり宗教的な解釈になってしまうのだが、元々キリスト教は圧制に対する不満に端を発している。つまり、溝呂木の言う「他者を支配し圧する為に」という言葉に対して、姫矢=ウルトラマンの放った「希望を捨てない人たちのために」という言葉に気付いたとき、光は復活(リバイバル)したのだ。姫矢はそこに導かれるまで、非常に深い絶望によって試されたのだ。乗り越えた姫矢は「英雄(クライマックスあたりに主題歌のタイトルを付けるのは、平成ウルトラの慣例)」となった。
少々ディープな話になりすぎたので、今回のシーン作りについて言及を。まずは溝呂木の華麗な(?)立ち回りに注目。久々に登場した彼を印象付ける、超人的な振る舞いがなかなかカッコいい。孤門の成長振りも○。特にウルティメイト・バニッシャーでウルトラマンにエネルギーを与えるシーンでは、彼の静かなる自信に満ちた表情が印象的。「砕け散れ~!」という穏やかならざるセリフを吐く凪のキャラクターは、「死んだ方がマシよ」を経て、ウルトラマン復活の時に見せた表情にトドメを刺す。
また、クライマックスを飾る戦闘シーンにはCGがふんだんに使用され、超人の人智を超えた戦いを華麗に演出している。チェスターが全弾発射で「板野サーカス」していたのには驚いたが、ウルトラマンとメフィストの対決では、空中戦でありながら肉弾戦という難しいシーンを見事に表現していた。
「光は、絆だ」 この言葉はウルトラマンネクサスという世界、ひいては映画「ULTRAMAN」をも含んだ世界のキーである。次に絆を受け継ぐ新たなデュナミストの活躍に期待したい。