ブレイブ46「だいけっとう!アイとなみだのいちげき」

  • 投稿日:
  • by
  • カテゴリ:

 イアンとアイガロンをメインとし、ダイゴとダンテツの相互理解を成立させ、アミィのポジションを改めて明確化し、様々な要素を収斂させた一編。

 これだけ多様なトピックを盛り込みながらも、イアンとアイガロンの一幕ではしっかり泣かせる処が凄い。というより、視聴後はそれしか印象に残らない処が、良い意味でさらに凄い。

 それだけ、メインとなる部分に関する本作りや演出が熱かったという事でしょう。4クール目では特に目立たない存在になってしまったアイガロンでしたが、その存在感の薄さ(水島裕さんの声だけは存在感が抜群でしたが・笑)までエクスキューズにしてしまうという凄まじさによって、完璧にアイガロンの物語を収束させてくれました。

 まず素晴らしいと思ったのは、往年の東映時代劇からの伝統である、「大罪を犯した者は死を以て償うべし」という大義が、ちゃんと適用された事です。

 まぁ、この件に関しては、法治の原則からすれば多分にエキセントリックな論理で、批判を逃れる事は常に不可能なのですが、そもそも悪の幹部に法なんて通用しないし、ファンタジードラマの中では最も「分かり易い贖罪」ですから、仕方ないでしょう。

 処理の是非は置いておいて、「クローズアップされる死」が介在するという事で、そこに何らかの悲哀が生まれるのは、ドラマの手法としてごく当たり前であり、今回もその作劇法に則っています。面白いのは、アイガロンの悲哀を取り上げているのは勿論の事、そのアイガロンを仇敵とするイアンの悲哀まで取り込んで一緒に盛り上げている事でしょう。アイガロンにスポットが当たり過ぎてイアンのドラマを消化不良にしてしまうという懸念もありましたが、その辺りを見事に回避していましたね。

 この回避の為に描かれたのは、イアンの「情け」でした。

 イアンはクールに振る舞いつつも、実は激情家の面を隠し持っており、それは「親友の死」というトピックに過剰に反応する彼の姿に顕著です。この「親友の死」は、シリーズ中にて折に触れて語られ、イアンのドラマを繋いできた重要なトピックなのですが、これがイアンのカラーであるブラックらしい「復讐」という影を生み出しており、ネタキャラと化した中盤にあっても、イアンに付きまとう影の部分がスポイルされる事はありませんでした。

 故に、イアンは太陽のようなダイゴの影として存在し続け、今回のダイゴの決意(父との直接対決)に、唯一人理解を示さない態度をはっきりと呈する事が出来たわけです。ダイゴとイアンは、ある意味裏表を為す存在なので、根底では完全に理解し合える間柄でありながら、批判者として対峙する事も可能であったと言えるでしょう。

 そんなイアンの復讐心は、この期に至っても当然の如く消える事はなかったのですが、その復讐心解消に向け、ここで実にアクロバティックな回答が提示されます。

 それは、アイガロンの「愛」。

 アイガロンは、実はカオスによって生ける屍とされており、それ故に時折やや支離滅裂な言動をとったり、表面的な印象では「劇中であまり目立たなくなって」いました。しかしながら、その裏ではキャンデリラを一途に愛しており、実は「アイ」の中身が「哀」と同時に「愛」であったというのです。この件については、アイガロンがキャンデリラに言い寄ったりするシーンがコミカルに盛り込まれ続けていた為、その積み重ねが功を奏し、全く違和感がありませんでした。そして、実は既に死んでいたという「哀しい」状況下にあっても、なおキャンデリラを「愛し」続けたという悲劇性が、よりアイガロンへの同情心を煽る事になります。

 しっかりと視聴者をその気にさせておいて、その状況にイアンを放り込むタイミングの良さは正に抜群。イアンの復讐心は、そのままアイガロンに容赦ない攻撃を浴びせる姿へと集約されていき、そこに「ヒーローの正義」などという言葉の介在する余地はありません。しかし、解放されたがっているアイガロンの魂が、そのあまりにも硬い鎧の中から出られないと知るや、イアンはその攻撃を「鎧を穿つ」事へと集中させるのでした。これが視聴者と共有する「情け」です。

 この瞬間、アイガロンは魂の逃げ場を得て、愛するが故に哀しいという苦しみから解放される事になるのですが、同時に、イアンも復讐を果たすと共にアイガロンを「救った」事で、彼を常に苛んできた影から解き放たれる事になります。その現れが、イアン自身が制御出来ない「涙」であり、涙を流すという事はそれがカタルシスである事を示しています。

 愛(?)を常々口にするイアンが、アイガロンの愛を認めて救ってやるという結末には、非常に唸らされるものがありますし、この両者が因縁深い関係に置かれた事に関して、この結末を予定してのものだったとしたら、それは凄い事です。

 なお、アイガロンが生き延びてキャンデリラと共に次代の導き手となる結末も、「キョウリュウジャー」の作風からは導き出せる可能性はありましたが、やはりイアンの物語に決着を付けるには、そしてはっきりと人間を殺めるシーンのあったアイガロンが贖罪を果たすには、今回の「浄化」とも形容される死が最も妥当な結果である事は、間違いないでしょう。それだけ、納得出来る結末でした。

 その後、ダメ押し的にアイスロンドとの対決において、イアンがアイガロンの重い哀しみの宿った「トホホーク」を叩き付け、各ブレイブフィニッシュの通じないアイスロンドを一撃で倒すという、超絶に格好良いシーンが用意されました。深読み癖全開で推し量るならば、「愛」によってより重みを増した哀しみの前には、共感のない収集家の哀しみ等スズメの涙程の重さもない...といった処でしょうか。アイガロンが「とにかく硬い」という設定も活かされた名シーンでしたね。

 さて、一方で解決されるのは、ダイゴとダンテツの関係です。

 前回、私はダンテツの行動が完全なる「地球至上主義」に基づくものだと、すっかり思わされてしまいました。つまり、ミスディレクションにまんまと引っかかったわけです。

 地球の「真のメロディ」というミステリアスなターム(しかも目には見えない「音」)によって、いわゆるエコロジーの最果てとして有効な空想SF的考察である「人類滅亡こそ地球の求める未来」に誘導されてしまったのですが、よ~く考えてみると、恐竜の絶滅から端を発しているこの物語において、地球上で栄える生命の滅亡が地球意志の帰結点に成り得る筈もなく、前回がいかに視聴者の冷静さを欠かせる見事な構成であったかが窺えるというものです。

 で、いわゆる「見せ場」として、キョウリュウシルバー VS キョウリュウレッドが繰り広げられ、それが超弩級の親子喧嘩であると形容されます。結局、ダンテツがトリンの命を奪った理由は、大地の闇にトリンの正義のスピリットを送り込む為というものでした。つまり、トリンを大地の闇に堕とすという事自体はウソではなかったわけです。そして、この行為でデーボスを欺き、時間稼ぎをしようとしたのですが、ダンテツは恐らく、ダイゴならば分かってくれると踏んでいたのではないかと思います。いや、もしかすると、ダンテツは自らデーボスの殲滅を企図していて、その為の障壁となるならば、我が子であるダイゴですら倒す覚悟があったのかも知れません。故に、ダイゴが「真のメロディ」を感じ取ってくれた時には、自分が歩いてきた竜の道を息子がちゃんと歩いてきてくれたのだと、喜んだ事でしょう。

 「敵を欺くにはまず味方から」という定番に添いながら、より先読みを許さない感覚を伴って新鮮味を醸し出していた理由は、このようなダンテツの姿勢にあったように思います。つまり、ダンテツには「後からネタばらし」等という陳腐な意図は最初から皆無で、ダイゴが正しい道を進んでくれば、自ずと分かる筈だというスタンスなわけです。従って、ダンテツはダイゴに対しても、その仲間である「戦隊」に対しても容赦はしないし、その「本気度」にデーボス自体も騙されてしまったという事ですね。

 このくだり、ダンテツを再びキョウリュウシルバーとして「戦隊」に迎えるには充分過ぎる展開でした。どうやって「裏切り者」を再び贖罪なく寝返らせるかという問いへの答えは、そもそも、ダンテツは「地球と人類の味方、デーボスの敵」であった...ただそれだけのシンプルなものでした。ダイゴは、「トリンの仇」という視点を捨ててダンテツと「親子喧嘩」をし、ここでやっと「地球と人類の味方、デーボスの敵」として、ダンテツと同じ場所に立ったのです。

 最後に、突如その存在感をクローズアップされたアミィについて。

 当初から指摘してきたように、アミィにはダイゴと「ダイゴの元に現れた者」の仲介役を任される事が多く、それがアミィの興味深い特徴だと述べて来ましたが、まさか劇中でそれに関する言及があるとは。

 その「らしさ」でダイゴを勇気づけたアミィは、続いてイアンを筆頭にダイゴの意図を飲み込めない他のメンバーの説得に当たりますが、ここでまた、仲介役を買って出ています。本当にもう、ジグソーパズルのピースがどんどん埋まっていくような感覚でしたね。アミィのポジションをそれまでの積み重ねでちゃんと(しかもさりげなく)感じさせ、最終編でバシッと使う素晴らしさ。素直に賞賛したい処です。

 次回は、何だか凄い事になりそうですね。あの人やこの人が登場して...楽しみは尽きません!