ブレイブ40「グッとくーる!オッサンはつらいよ」

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 充実のノブハル編。最年長であるノブハルの、非モテ属性を「純情」に換言して描かれた、充実の「特撮人情ドラマ」でした。

 元々、ノブハル編は人情編として成立し得る完成度の高いドラマを輩出してきただけあって、今回も抜群の完成度を誇ります。しかも、デーボ・カントックの能力が、瞬時にその場を映画風に変えてしまうというハイブロウなもので、これにより、充実度満点のコメディ編としても成立。正に「特撮人情コメディ」という形容が相応しい名編となっています。

 前々回の鉄砕編で、ラッキューロの「迷い」を導入しましたが、今度はキャンデリラにそれが及びます。

 人間の喜怒哀楽を陰陽で分類するならば、人間にとって「陽」の感情となる「喜」と「楽」。その「喜」を担うキャンデリラは、実は人間と理解し合える存在なのではないか。そういった「疑問」が今回のテーマを形作っていると言えます。

 制作の裏側を想像するならば、キャンデリラの声を担当している戸松さんが、人間態として登場した処、これが好評だったという側面がありそうです。そのくらい、戸松さんの魅力が溢れているキャラクターだと思います。そして、それはラッキューロに関しても言えたわけです。

 今回、キャンデリラはノブハルに元々興味があったという設定になっており、かつてノブハルを誘惑(?)したシーンがプレイバックされましたが、これは伏線というより、たまたま良いシーンがあったという事でしょう。もし、あのシーンが伏線であるならば、何とも凄まじく用意周到なシリーズ構成ではないでしょうか(笑)。しかしながら、あのシーンの流用は抜群の効果をもたらしており、覿面であった事は間違いの無い事実です。

 それにしても、作戦とはいえ、わざわざお見合いの場を設定する等、実に手間のかかる事。この辺は、特に初期の戦隊ではよくあるパターンで、気の長~い地道な作戦が展開され、これがコメディとして扱われるか、はたまた恐ろしい作戦だと戦慄させるような作劇かは、そのシリーズの方向性に沿って(時には、季節性が考慮される事も)選択されますが、どちらかと言えば、前者が多いような印象を受けます。

 今回の場合は、手間のかかる作戦そのものに可笑しさを求めるよりは、キャンデリラを存分に立ち回らせる為の装置として機能しているようです。わざわざラッキューロを「変装」させて「中の人」である折笠愛さんを登場させるといった、マニアックで衝撃的な仕掛けも抜群で、この「舞台装置」によって、元来コメディリリーフであるノブハルとの人情劇が巧く回転していたように思います。

 ちなみに、キャンデリラの人間態の名前は「桃園喜美子」となっており、「喜」がちゃんと盛り込まれているのはさすが。年季の入ったファンならば、「ゴーグルファイブ」の桃園ミキを思い出す処でしょう。桃園ミキと桃園喜美子にビジュアルの共通点は見出しにくいかも知れませんが、両者ともスレンダーで明るさのある美人という点は共通していると思います。

 このキャンデリラが、ノブハルの純情に触れてラッキューロと同様に迷いを生じるわけですが、そこに至るプロセスが短い尺の中で実に丁寧に描き込まれている事に気付きます。

 当初は、互いの正体に気付きつつも警戒している様子であり、何故だか何となーく言い出しにくい雰囲気がシチュエーションコメディ風。二人だけになった時、カントックの攻撃から思わずキャンデリラを庇ってしまうノブハルのシーンから、ググッと両者の心情の変化に迫っていく辺りの構成が見事。一方で、一旦別れた後、もう一度キャンデリラと会ってみると言うノブハルの心情が、少しだけ視聴者にとってボカされた感覚になっているのも秀逸で、ノブハルの真意が「キャンデリラの説得」なのか、「キャンデリラへの興味」なのかが、予測し難いようになっています。

 「興味」へのミスリードは、ダイゴの言う「カントックに幽閉された人々を救出する目的を忘れていないか」という言葉で決定的となりますが、直後のノブハル流の説得=まさかの土下座によって、キャンデリラ自身の説得と人々の救出を両方成就させようとする秀逸な行動によって、我々も溜飲を下げられる結果となりました。この真っ直ぐさには、ソウジの若さ故の真っ直ぐさとは違う、「捨てるモノが少なくなった年長者」の真っ直ぐさが感じられます。それは、経験から来る直感に基づいて邁進していく「働き盛り」の姿を重ね合わせる事が出来、実に感慨深いものがあります...。

 この一連の説得シーンでは、土下座だけでなく、カントックの猛攻に生身で耐えてみせる等、不器用なノブハルの一生懸命さがひしひしと伝わる名場面となっていますが、生身=変身出来ない=ガブリボルバーが手元にないというシチュエーションが、キャンデリラの改心(迷い)=ガブリボルバーを蹴り渡す=変身という「逆転」に至る、言葉で説明するよりも何倍も分かり易いビジュアルのみでまとめられている辺りがとにかく素晴らしい。終始人を食ったような態度でその「逆転」をもたらすキャンデリラには、善にはなりきれない迷いが在り在りと感じられるわけで、演出、演技、画面構成の巧みさには、素直に感嘆せざるを得ません。

 これで、キャンデリラにも、ラッキューロと同種の「機会」が与えられた事になります。今後どのように物語に作用していくのか、実に楽しみな処です。

 さて、ノブハルの周辺描写にもかなりの力が入っていました。

 優子の描写は、完全にノブハル=キョウリュウブルーである事に気付いたという前提で組み立てられており、しかも、ノブハル本人には無用な心配をかけまいと、気付いた事を内緒にしているという、「出来た妹」っぷりが際立ちます。

 一般人としての振るまいから、「デカレンジャー」当時を想起させるちょっとしたアクションまで披露。持ち前の怪力でラミレスを振り回すという暴挙も、木下あゆ美さんなら許せる(笑)! とにかく、優子の魅力もふんだんに盛り込まれており、満足度はすこぶる高いです。喜美子の正体を知った後も、ノブハルの言う事ならば信じられるという態度がこれまた「出来た妹」で、かつてのシリーズで主役を張った女優の、一歩引いたポジションを絶妙に演じる「味」の深さ。今回の美女競演の中でも白眉と言えるでしょう。

 前回快復を見せていたラミレスが、幽霊なのに行き倒れ寸前で登場するという「掴み」も抜群の可笑しさ。可笑しさと共に、戦いの壮絶さをも感じさせる処が良く、スピリットレンジャーとてマイティではないというバランス感覚が優れています。優子の優れたメロディ(ブレイブと換言出来るもの?)に気付くのがラミレスであるという描写も秀でていて、いわゆるセミレギュラー格の中に最終決戦に関する鍵を見出せるのではないかという「予感」を忍ばせているように見えます。全体的にコミカルな本編の中にあって、このような重要な要素をサラッと盛り込むさりげなさが、「キョウリュウジャー」の特徴である事は、再三述べている通りです。

 そして、今回の敵役であるデーボ・カントック。高木渉さんの饒舌さがそのままコミカルなデーボモンスターの個性に繋がっています。

 デーボ・カントックには、瞬時に周囲を映画の世界へと誘う能力がありますが、これは「デンジマン」のフィルムラーなるベーダー怪物とほぼ同じ能力であり、変身後の戦隊が瞬時に生身のコスプレへと変化する演出も全く同じです。「デンジマン」の同話では、時代劇、スポーツ、西部劇といった「典型」を題材とし、楽しい画面を作りあげていましたが、今回はもっと「元ネタ」がはっきりしているパロディにまで発展しており、楽しいを通り越してあざといまでの徹底振りが可笑し過ぎるものとなっていました。全ての原因がアミィに求められる処も可笑しく、回想シーンで久々に足癖の悪さが描写されるなど、アミィファンも納得の出来(笑)。

 「恐竜警察」は当然の如く「西部警察」のパロディ。タイトルロゴまでそっくりで、派手な銃撃戦やアクションといった要素を、元ネタからしっかり拝借して「キョウリュウジャー」仕立てにしています。ここではアミィのキュートなコスプレと、空蝉丸の何だか分からない衣装に注目。

 「荒れるぜ!!恐竜学園」は大映ドラマにおける、一連の学園不良モノが元ネタ。ソウジだけ元から学生なのでコスプレ無しという措置が笑えます。ここでは、最終回の醍醐味をうんと先取りして、生身の名乗りを披露してしまう暴挙に出ます(笑)。この時点で、既に個々の名乗りポーズの完成度が高いのは驚くべき事項です。ただし、アミィの足技はスカートの長さの関係で封印。スケバンコスプレがこれまた可愛い...。

 この流れは巨大戦にまで波及し、千葉さんの大仰なナレーションが、巨大戦を大作予告編風に彩ります。題して「怪獣大決戦」。ロゴは往年の東宝怪獣映画風。要所要所で出現する予告の描き文字も雰囲気たっぷりで、このやり過ぎ感が堪りません。このシチュエーションの原因は、アミィが置いていた怪獣映画のDVDをトリンが見ていたから...という思わず吹き出すようなものでした。トリン...。

 というわけで、非常に楽しく見応えがあり、些細なシーンも見逃せない充実回でした。

 次回はいわゆる年末商戦販促編ですが、こういう商魂逞しいエピソードをどう料理するか観察する醍醐味こそ、戦隊ファンは味わい尽くすべきだと思います(笑)。