ブレイブ19「キャワイーン!うばわれたファミリー」

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 空蝉丸が徹底して「いい人」である事を描いた回。

 その「いい人」っぷりは、弱者の現状の庇護という観点のみならず、その弱者の将来を心配して叱咤激励するという段階にまで及び、親になった者にとってはグッとくる優しさに満ちあふれています。

 一方で、モンスターペアレントを極限までカリカチュアライズした両親を登場させており、この辺りはややリアリティには欠ける側面もあったものの、何故か「こんな親居るよな」と思わせる演出はさすがの一言。しかも、事件解決後もこの両親の態度が改善されたという描写は皆無となっており、子供の自立は促されたが、親の「自律」については全く先が見えないという、やや空恐ろしい感覚が横溢しています。まぁ、空蝉丸の爽やかすぎるキャラクターが、その辺りを払拭してしまいますので、「分かる人はゾッとする」といった程度ではありますが。

 本エピソード、デーボスの流儀を取っ払うと、実にオーソドックスな成り立ちをしています。「キョウリュウジャー」では、このようなオーソドックスな筋運びに味付けをするのが実に巧く、こう言ってはナンですが、イベント編よりも面白いと思います(笑)。

 まず、今回のデーボ・キャワイーンを擁した作戦ですが、これとほぼ同じ作戦が「シャイダー」の中に存在します。そのエピソードと今回とを比較し、相違点を探る事で今回の特徴を明確にしてみましょう。

 一つ目の相違点は、家族の描かれ方の違いです。時代の移ろいが如実に感じられ、「シャイダー」の場合はまだ、昭和の「賑やかな核家族」という雰囲気が残っており、新興住宅地っぽさもありつつ、やや狭苦しい家で家族がワイワイガヤガヤと食卓を囲んでいるといった感覚です。一方で今回は、広くて明るい家にごく少人数で住んでいるという雰囲気であり、両者には「密集」と「閑散」という対比がよく似合うと思います。

 二つ目。展開される作戦は殆ど同じで、本来の子供が親の庇護から完全に爪弾きにされてしまうというもの。しかしながら、「シャイダー」におけるそれは、ジワジワと真綿で首を絞めるように子供を苦しめていく(要は、子供も黙っては居らず、親に文句を言って事態を打開しようと試みるが空振りに終わる)のに対し、今回の場合は、元々親の庇護に最大限頼り切った子供をチョイスしており、短時間のうちに子供を絶望の底に突き落としています。

 これら二つの相違点は、そのまま敵側の目的意識の差となっています。「シャイダー」のフーマが、家庭崩壊から人間社会の瓦解を誘発させようとしているのに対し、デーボスは、もっと短絡的に「悲しみの感情」さえ手っ取り早く収集出来れば良いのです。故に、「シャイダー」ではコミュニケーションが一方的でない(双方が賑やかに言いたい事を言う)親子が標的とされたのに対し、今回は親の一方的な主張のみで人格形成されてしまった子供が標的となったわけです。

 昭和に子供時代を過ごした「大きなお友達(笑)」にとっては、今回の家族の描かれ方が、かなりの気味悪さを伴っているように感じられたのではないでしょうか。勿論、ここまで極端な家族像はあまりリアルとは言えないですが、それだけに、「あんな風にはなりたくない」と感じられたのではないかと思います。かく言う私も、何となく我が身を振り返ってしまいました(笑)。

 三つ目の相違点は、「シャイダー」における解決が、完全にヒーローの手によるものであるのに対し、今回の解決が、子供の自立を主眼に置いている事。

 前者の「解決」の糸口は、子供の嘆きを嗅ぎ付けたシャイダーが、原因となる怪物を成敗する事で行われましたから、初期のウルトラシリーズのような「事象に対する対処」と表現されるシンプルさを伴っています。宇宙刑事シリーズの面白い処は、その「事象」に対して主人公が怒りを燃やすといったメンタル面のドラマが織り込まれる事で、子役よりもむしろ主人公に感情移入させるという手法なのです。一方、今回は空蝉丸の危機を救うのは、空蝉丸の言葉を理解した「被害者の子供」であり、ここで視聴者が応援したくなるのは、完全に「子供」の方。ここでの空蝉丸のポジションは、完全に「導き手」であり、宇宙刑事よりもっともっと前のヒーロー像を体現しているわけです。

 子供の自立を事件解決の端緒とした今回の作劇は、最も分かり易い「変身アイテム」の奪回というシーンとなって現れ、「自立」と「逆転」を両立させる事でカタルシスを生みました。これは見事でしたね。しかも、キャワイーンの二面性を巧く利用し、子供でも事態の打開が可能な状況を作り出していて、無理のない流れになっています。

 これらの相違点を総合すると、今回の作戦が目的意識を非常に明確にしていたが故に、導き手が早期に作戦を理解し、被害者を揺さぶる事による事件解決を進めたのが分かります。「シャイダー」において、被害者が徐々に追い込まれていき、元を絶つより事態を収拾出来ない状況まで進行する(一応、シャイダーは都度作戦の邪魔をする)のとは、およそ逆になっているわけです。シンプルなプロットですが、味付け具合でこうも展開が異なるとは、面白い限りです。

 さて、デーボ・キャワイーンですが、この姿の変化を伴う二面性を持った怪物は、「バトルフィーバー」のカラクリ怪人を嚆矢に、色々と登場しています。中でも印象的なのは、「ジェットマン」のヌードルジゲンや「ガオレンジャー」のクルシメマスオルグ辺りでしょうか。悪意に満ちた怪人が多数を占め(カラクリ怪人は微妙)、今回も例外ではありません。また、コミカルな演出が為される場合も多く、これに関してもキャワイーンは例外ではありません。今回は特に、ガラットやカブタックのような上下入れ替え変形が取り入れられ、正に豹変といった言葉がピッタリ。

 いわゆる「起き上がりこぼし」をイメージソースとした通常態と、フランス人形+悪魔像といった雰囲気の「バッドキャワイーン」のギャップが物凄く、ラッキューロを使ってそのギャップを更に印象付けるなど、キャラクター作りが徹底されていて楽しいですね。通常態に対して、攻撃出来なくなってしまう空蝉丸の「甘さ」がグッと来るのに対し、何の躊躇もなく攻撃を加えるダイゴの格好良さたるや、これまたグッと来ます。

 最後に今回のメインである空蝉丸に言及しておかなければならないでしょう。

 前述の通り、空蝉丸は「導き手」としての役割に終始しています。戦国時代における「失敗」がフラッシュバックされ、やや重苦しい展開になるのかと思いきや、既に空蝉丸のブレイブは揺るぎないものとなっていたのだと表現されるかのように、自分の信じた手段で被害者・勇治と関わっていきます。「放っておけない」のが特徴のアミィとはやや異なるアプローチで子供に世話を焼く空蝉丸の姿は、一人の「男」を真剣に心配する「男の先輩」の姿であり、現代の風俗習慣に戸惑いつつ古風な言動で奮闘する彼の一途さに、感動を禁じ得ません。

 いわゆる侍キャラであるにも関わらず、自らの武士道観を振りかざす事のない空蝉丸は、時代錯誤に陥らないダイレクトな「男としての在り方」を「爽やかに」説いており、非常に好感を持てるキャラクターとして成立しています。大袈裟な物言いをお許し頂ければ、やはり今回の空蝉丸の姿を見て、自らの親としての言動を律する必要性を感じた面は少なからずあるわけで、「キョウリュウジャー」の教育的価値を改めて確認した次第です。

 また勿論、変身出来ないというシチュエーションの上で成立した、素面アクションの素晴らしさは言うまでもありません。剣術がホントにサマになってますよね。そして、戦闘時の「目力」の半端なさが素晴らしい!

 さて、次回は山下真司さんがどのような形で登場するのか...?